オウム事件が残した宿題

オウム事件と首謀者とされる松本智津夫ら7人の死刑囚に対する死刑が執行され、先進国における無差別テロ事件として、世界を震撼させた事件にひとつの区切りがついたようです。
「私たちがしなければならないことは、『麻原彰晃』や『オウム真理教』を、宗教思想やカルト宗教史のなかで位置づけることではなく、松本智津夫という男がつくりあげた観念の城を、かけがいのない多くの人々の生命と生活を奪ったという現実の刃で突き崩すことだと思う。宗教的な『実践』がただの『犯罪』行為の積み上げにすぎないことを確認させたうえで、その宗教的実践をひとつずつ犯罪行為に解体していかなければならない。『ポア』ではなく、ただの『殺人』であることを自覚させるのだ」

地下鉄サリン事件が起きた1995年3月からほぼ2年後の1997年2月に出版した拙著『怒りの苦さ また青さ』(東洋経済新報社)を開いたら、こんな拙文がありました。裁判の過程で、麻原に犯罪の事実を突きつけ、犯罪者であることを自覚させることが必要だと、主張したのですが、残念ながら、麻原は心を閉ざすことで、その自覚をかたくなに拒否したまま死んでいったのでしょう。事件の関係者が死刑執行というひとつのけじめに対して虚しさを感じているとすれば、このことではないでしょうか。

それにしても、なぜ、無垢の人々を殺傷するような教祖に、多くの若者が従い、そのなかには、実行犯となって麻原とともに死の道を歩むことになったのでしょうか。21年前の私は拙著のなかで、オウムの「ポア」と全共闘の「内ゲバ」との類似性を指摘し、「私たちの世代が暴力について、もっとちゃんと『総括』しておくべきだった」と書いています。また、「閉塞した社会への絶望は、ひとりよがりな『改革』の試みを生む」として、オウム集団の背景には、時代的な閉塞状況があるとも書きました。

たしかに社会を変えようという意図があったという点では、オウムは全共闘を引きずっていたかもしれないし、全共闘運動よりは、ずっと内向的というか、ひとりよがりという点では、時代閉塞がさらに進んでいたのかもしれません。しかし、オウム事件のあとに起きた下関・通り魔事件(1999年)、大阪・池田小襲撃事件(2001年)や東京・秋葉原無差別殺傷事件(2008年)、今年6月の新幹線殺傷事件と、「無差別殺人」の例を並べていくと、オウムはこうした流れの爆発的な先駆けのような気もしてきます。

社会学者の見田宗介は近著『現代社会はどこに向かうか』(岩波新書)のなかで、秋葉原事件を取り上げて、犯人のTKは、自分とは反対側の人間たちを「リア充」と呼んでいると指摘、トラックからわざわざ降りて、刃物で殺傷したことについて、「どんなにリアリティに飢えていたことか」と述べています。そして、リストカットの少女たちとあわせて、「現代人はなぜこのように、生きることの意味を失ってしまうのだろうか」と問いかけています。

私は拙稿のなかで、村上泰亮著『反古典の政治経済学』(中央公論)の一節を引用しながら、産業革命以来、経済の発展が世界をよい方向に変えると人類は信じてきたが、「産業化の結果が環境破壊を招いたように、世界の流れが必ずしも人類の進歩や幸福に結びつかなくなったときに、閉塞状況に陥った自己は、別の形で自己実現をはかることになる」として、オウムの背景にある閉塞状況について述べました。

20年前よりも、産業化の帰結は、地球変動のような形でより明確になっています。物質文明の発展に幸福を託せない若者がふえている傾向は、スピリチュアルな世界を信じる若者がふえていることでもわかります。前掲の『現代社会はどこに向かうか』で、著者は、NHK放送文化研究所の「日本人の意識」調査を使いながら、1973年と2013年の20代の若者の意識が大きく変化している例として、「信じているもの」の次のような項目の数字を比較しています。

・「あの世、来世」     5%→21%
・「奇跡」    15%→26%
・「お守りやお札などお力」 9%→26%
・「易や占い」 8%→11%

こうした数字を見ていると、カルト的な事件がこれからも起きる可能性を示唆しているようにも思えてきます。近代が「合理性」の貫徹と「魔術からの解放」だとすれば、産業化の先にあるポスト近代は、非合理と魔術の世界への後戻りを避けながら、新しい世界を見出さなければならないということになります。

オウムが残した宿題は、現代社会が突きつけられている課題ということになります。

(2018.7.7)

米朝首脳会談で問われる日本

「歴史的な」という形容詞が付いた米朝首脳会談が終わりました。事前の期待度からいうと、北朝鮮の核放棄についての具体的な時期や方法などが共同声明で示されなかったため、中途半端であいまいな合意だという印象を世界に与えました。たしかに、この会談は、いったん米国から中止が告げられたあと、金正恩委員長のトランプ大統領あての親書を含め、北朝鮮側からの要請で再び設定されたものと理解されていました。だから、米国側がずっと要求していた「完全かつ検証可能で不可逆的な非核化」(CVID)という文言が必ず入ると思われていただけに、この程度の合意内容なら、いったん中止というのは何だったのだろうか、と思うのも当然だと思います。

メディアの報道も、米国が北朝鮮に「体制保証」という大きな特典を与えた割には、その見返りが少ない、という視点が強く出ていました。13日付け朝日新聞の国際報道部長の解説には、「自賛の合意、軽率な譲歩に不安」というトランプ批判の見出しがついていました。そうした批判はあたっていると思いますが、半世紀以上にわたって敵対してきた国同士が和解に向けて動き出すには、無条件降伏ではないのですから、段階的というプロセスも時間も必要だともいえます。下記のような共同声明が発せられたことは、「歴史的な」出来事だと素直に「評価」したうえで、この流れのなかで、世界と東アジアにどんな変化が起こるのか、それこそ歴史的な視点で考えることも必要だと思います。

トランプ氏は北朝鮮に安全の保証を与えることを約束し、金正恩氏は朝鮮半島の完全な非核化に向けた確固とした揺るぎない責務を再確認した。

第1の視点は、朝鮮戦争の終結と核・ミサイル問題です。北朝鮮の核武装やミサイル開発は、一般的な国家防衛の品ぞろえではなく、朝鮮戦争が継続しているという北朝鮮側の認識のなかで、進められてきたものです。朝鮮戦争の終結は、その意味で、北朝鮮にとっては、核・ミサイル放棄の前提となるものでしょう。

今回の共同声明には、朝鮮戦争の終結という言葉が盛り込まれませんでした。しかし、
共同声明には「板門店宣言」の再確認という言葉が盛り込まれています。板門店宣言では、朝鮮半島での非正常な現在の休戦状態を終わらせるという文脈のなかで、朝鮮半島の非核化という目標が示されています。この宣言を米朝の首脳も「再確認」したのですから、朝鮮戦争の終結という方向は明らかになったとみるべきでしょう。トランプ大統領は、米朝首脳会談後の記者会見でも、「今や朝鮮戦争がまもなく終わるという希望を持つことができる」と語っています。

上記の朝日新聞国際報道部長の解説には「記者会見でのトランプ氏は饒舌だったが、共同声明の内容は乏しい。意欲を示していた朝鮮半島終結を想起させる言葉が見当たらない」と、書いています。しかし、板門店宣言の再確認という言葉があり、会見でも終結への希望をトランプ氏が語っているのに、戦争終結を「想起」すらできないというのは、目が曇っているとしか言いようがありません。結果的には、トランプ氏の希望は、希望にすぎなかったということになるかもしれませんが、今後、少なくとも韓国は、戦争の終結に向けて積極的に動くでしょうし、北朝鮮の核放棄問題と同時並行して、戦争終結の動きが中国やロシアを含めた国際的な問題になることは間違いありません。朝日新聞には、そうした視点も含めた「国際報道」を期待したいと思います。

第2の視点は、トランプ政権の東アジア政策です。何を考えているのかわからない、というのがトランプ大統領への一般的な評価で、私もそう思ってきました。しかし、米朝首脳会談後の大統領会見では、一貫性のあるトランプ政権の外交姿勢を明確に語っていました。

朝鮮半島における米軍を削減するのかと問われて、大統領は次にように答えています。

私たちの兵士たちを家に帰してあげたいが、今の時点でそのつもりはありません。ただ、今後の交渉で「戦争ゲーム」をやめることになれば、巨額のお金を節約することになります。

朝鮮戦争を終結させ、「戦争ゲーム」をやめ、在韓米軍を削減することになれば、巨額の軍事費を節約できる、という考え方です。日韓軍事演習についても、これは「戦争ゲーム」だとしたうえで、「これに費やすお金は途方もないものです」と語っています。軍事費は、「仮想敵国」を想定したうえで、仮想敵国との戦争に勝つ軍備を整えることで、仮想敵国が戦争をあきらめさせ、戦争を抑止するというのがひとつの基本ですから、まさに「戦争ゲーム」です。その戦争ゲームが現実だとして、政治的影響力を行使してきたのが米朝首脳会談で、大統領の横にいたボルトン補佐官ですから、大統領のあからさまな発言に驚いたに違いありません。

トランプ大統領の考えを推し進めれば、いずれ在韓米軍、さらには在日米軍を撤退させて、軍事費を削減してそのお金を、減税を含めて米国のビジネスでの競争力を強化させることに使う、ということになります。しかし、朝鮮半島での戦争の危険が消えてなくなるわけではありませんから、米軍不在の穴を韓国は自力で埋めなければなりませんし、日本も同じことが言えます。これは、米国が東アジアで果たしていた警察官としての役割を韓国や日本が肩代わりしなければならないということです。

北朝鮮が核兵器を廃棄するためにかかる莫大な費用について質問されたトランプ大統領は、こともなげに「韓国と日本が北朝鮮を助けると思うし、韓国や日本は助ける準備をしている」と語りました。大統領がここまで言うからには、米韓や日米首脳会談で、非核化の費用は韓国と日本で持つ、という話が了解されているということでしょう。米国は、自国の東アジアにおける軍事的なプレゼンス(存在感)を弱めていくが、その空白部分は、日本や韓国など当事者が負うべきだ、というのでしょう。

わかりやすく国民受けする論理ですが、日本や韓国にとっては、大問題ということです。歴史的な視点で今回の会談をみたときに、米国がアジアから引く、という大きな流れに沿って一歩踏み出したということが重要であり、日本にとっては、軍拡を続ける中国とどう向き合うか、という問題が外交、防衛、財政面でより先鋭化するということになります。

またまた朝日新聞の紙面ですが、北朝鮮の非核化コストの肩代わりの問題と、東アジアの全体像についての考察がほとんどありません。「安倍首相は、非核化をめぐって、トランプ大統領にどんな約束をしたのか」は、今後、国会でも議論されると思います。なぜ、朝日がこの論点を落としたのかわかりません。また、米国の姿勢を踏まえての日中関係や日ロ関係を含めた東アジアの今後のあり方についての考察がないのは、編集責任者の能力の問題なのか、そうした記事を書ける記者がいないのか、わかりません。どちらにせよ、一読者からすると、情けないという思いがします。

第3の視点は、第2の視点の続きですが、このままトランプに日本が流されれば、巨額な軍事費を日本が負担し、しかも、その軍事費は米国の防衛産業を潤すことに費やされる、ということになりかねません。日中間の軍事的な緊張を高まれば、防衛にかかる費用は天文学的に膨らみます。経済力からみて、軍拡競争で、先にへたるのは日本です。となれば、両国間の緊張を和らげ、必要な軍事力のハードルを下げるしかないと思います。言うは易くですが、海軍力の強化を進めている中国と、軍備競争を弱める外交は、とても難しいと思います。

米国のイエスマンでしかない日本の政治の在り方を根本から見つめ直す時期にきている、ということでしょう。

(2018.6.13 「情報屋台」)

悪魔は平凡に宿る~映画『ゲッベルスと私』を見て

ナチスドイツの宣伝相として悪名を歴史に残したヨーゼフ・ゲッベルスの秘書だったブルンヒルデ・ポムゼルさん(1911~2017)が103歳のときに語った長時間のインタビューをもとにしたドキュメンタリー映画です。6月16日からの一般公開(岩波ホール)にさきだって、日本記者クラブの試写会で鑑賞しました。

彼女がゲッベルスの秘書をしたのは、1942年から終戦までの3年間だそうで、それから70年近い歳月を経て、しわだらけになった彼女の顔を見ていると、年齢だけとは思えない苦しみを味わってきたのだろう、と想像したり、30歳そこそこの秘書だった彼女にナチスの蛮行の責任を負わせるのは無理だという思いになったりして、同情する気持ちすら生まれました。

しかし、その一方で、「ホロコーストは何も知らなかった」という言葉を語るときの表情や目のうつろさに、「うそ」を感じてしまいました。ゲッベルスが見るなと命じたので重要な書類は読まなかったそうで、そのなかには、第2次大戦中に反ナチス運動を展開して死刑になった「白いバラ」運動のショル兄妹の書類もあったと語っていました。当時、大きな社会問題になったはずの事件で、若い学生たちが関与した事件でもありましたから、「書類を見なかった」という発言も「うそ」のように感じました。

だから、けしからんというのではありません。人生の終わりを目前にしてもなお、「言い訳」をしているとしか見えない映像に、人間の性(さが)を感じました。ユダヤ人の友だちとのエピソードも語られるのですが、これも、「言い訳」という文脈のなかで、私は聞いていました。「この世に神はいないが悪魔はいる」と、語る場面もありました。たしかに彼女が神の存在を信じていれば、すぐに神の審判を受ける身ですから、別の真実を語ったかもしれませんし、神も都合のよい忘却は許さなかったかもしれません。

彼女の独白は、歴史家やジャーナリストの関心をひきつける「歴史的な証言」や「特ダネ」は何もなかったと思います。原題は「あるドイツ人の人生」で、ナチスの時代に生きた普通の人の物語という監督の意図が込められているのでしょう。ナチスの広報マンとして、国民をナチスになびかせ、反ユダヤ主義を広めたゲッベルスは、プロパガンダの天才といわれ、彼が果たした役割は、まさに悪魔の仕業としか言えないものだと思いますが、その悪魔を育てたのは、彼らの「うそ」を見抜けなかったというか、その「うそ」に鈍感になっていた「普通の人々」である国民ということでしょう。

英国の文芸評論家・哲学者であるテリー・イーグルトンが2011年に著した『悪とはなか』(翻訳は前田和男訳で2017年にビジネス社から刊行)のなかに、次のようなくだりがあります。

「稀な現象とされるものが実にしばしば起きるように、悪魔は平凡なものに根をもっている。アドルフ・アイヒマン」が、[ユダヤ人]大量虐殺の立案者というより疲れ果てた銀行員に似つかわしいのが、その好例であろう。 (中略) 誰の目にも明らかな悪行―金儲けのために社会全体をぶち壊したり、原子力兵器を準備したりといった―は、これぞ悪魔というよりも、平々凡々たる連中によってなされる。われわれが過剰に用心するようなものとは無縁なもの、それが悪魔なのである」

70年も前の出来事を語る老人の言葉に私たちが耳を傾けなければならないと思うのは、日常生活のなかで、小さな「うそ」に鈍感になっていると、その延長線上に、いつのまにか大きな悪が生まれるということではないでしょうか。そして、大きな悪に巻き込まれたあとで、人々は「知らなかった」という言い訳を自分自身に対しても、後世の人々に対しても言い続けなければならないのです。「悪魔は平凡に宿る」ということです。

いま、権力者たちの「うそ」が世界中で稀ではなく、しばしば流されているように思えます。そして、普通の人々は、そのうそに鈍感になっています。ナチスドイツを許した「私」は、いまやどこにでもいる「私」です。苦悩と後悔と自己正当化の踊りを百歳過ぎても続けなければならない「私たち」を見たくない、と思います。
(「情報屋台」2018.5.24 © 2016 BLACKBOX FILM & MEDIENPRODUKTION GMBH)