多様性の時代~映画『判決、ふたつの希望』を見て

この映画は、人種や宗教対立といったシリアスな問題がテーマになっているのですが、それをサスペンスドラマのような展開によって、見事なエンターテインメントに仕上げています。娯楽性を重視するアカデミー賞の今年の外国語映画賞部門にノミネートされていた、というのもうなずけます。映画を見終わったときに、多くの観客を魅了させたい、という映画の原点を忘れずに、難しいテーマに取り組んだジアド・ドゥエイリ監督ら制作者たちにまず拍手を送りたくなりました。

実をいうと、日本記者クラブで試写会をみるときに、二の足を踏みました。レバノンの首都ベイルートで、住宅の補修工事をしていたパレスチナ人と住民のキリスト教徒との言い争いから発展した裁判の顛末を描いたドラマ、といった内容だと聞いていたからです。日本国内でも、東アジアでも、重苦しい問題は山ほどあるのに、中東の苦悩まで「勉強」する気力はない、という気持ちでした。

それが杞憂に終わったのは、もちろん映画の巧みさもあるのですが、この映画が訴えているのが宗教や人種対立における「和解」の必要性というよりも、もっと幅広い、「多様性を受け入れる」ことの大切さだったからだと思います。この映画の対立するふたりの主人公は、政治家や運動家、宗教指導者ではありません。ふつうの暮らしをしている庶民で、事件の発端も住宅工事というどこにでもあることがらです。私たちは、ふだんの生活のなかで、いろいろな考え方や文化、宗教を持った人たちとともに暮らしている、という事実を受け入れる、それが多様性を受け入れるということだと思います。

多様性という言葉は、これからの時代のキーワードであり、多様性の受容は、これからの時代に必要な価値観だと思います。日本では、「LGBTは生産性がない」と雑誌に書いた議員の発言が批判されています。そうした発言をする議員がいるということよりも、そうした発言者を支えているのが政権与党であるということが深刻な問題です。米国では、ことさらに人種差別をあおるような大統領の発言が批判されていますが、米国でも、そうした発言者が政権を握っていることが深刻な問題になっています。「多様性の受容」は世界的かつ今日的テーマなのです。

映画に戻ると、パンフレット(プログラム)に収録されているジアド・ドゥエイリ監督のインタビューを読んでびっくりしました。ドゥエリ監督と、監督とともに脚本を手掛けたジョエル・トゥーマさんがともに「強い政治的理念を持つ宗派にそれぞれ所属している」とあり、監督はイスラム教のスンニ派、トゥーマさんはキリスト教系のファランヘ党と語っていたからです。まさに、かつては武力で戦った敵同士の次の世代が合作で書いたシナリオだったのです。母国のレバノンで映画がヒットしたのは、宗教や人種の異なる国民の多くが見ても、納得できる内容になっていたからで、その秘密は、この合作による脚本のせいだったかもしれません。この映画自体が多様化の時代を実践するスタッフで制作されていたということになります。

この監督インタビューに、監督のメッセージが書かれていました。すてきな言葉だったので、最後に、それを転載しておきます。「この作品はレバノン以外の国の人が見ても理解できると思いますか」という質問に対する答えです。

「この映画が描いているのは普遍的な問題なので、理解できると思います。(主人公の)ヤーセルとトニーはレバノン以外のどこの国で人間であってもいいわけです。この作品は全編を通じて楽観的で人道主義的なトーンで描いています。正義や赦しという方向に向かえば、そこには争い以外の選択肢があることを伝えているのです」

(2018.8.27 「情報屋台」、映画は8月31日から、TOHOシネマズ シャンテ他で、全国順次公開の予定。冒頭の写真:© 2017 TESSALIT PRODUCTIONS – ROUGE INTERNATIONAL – EZEKIEL FILMS – SCOPE PICTURES – DOURI FILMS)

スポーツ界の不祥事の裏にあるもの

ジャカルタ・アジア大会に出場中の男子バスケットボールの選手4人が選手村から夜の街に繰り出し買春をしたとして、日本オリンピック委員会(JOC)から代表選手の認定を取り消されて帰国しました。大会期間中に、日本のユニフォーム姿で買春行為をしていたとのこと、情状酌量の余地はありません。

帰国後の会見に現れた4人は、「軽率だった」と、謝罪の言葉を繰り返していましたが、「スポーツマンらしい潔い態度」と言えるような態度で、その受け答えに悪い印象は受けませんでしたが、逆に言えば、好青年に見える人たちが平然と「軽率な行為」を行うことに、スポーツ界の社会的な倫理とか常識のなさに不気味さを感じました。

今回の事件の原因は、もちろん本人たちの資質の問題ですが、その背後には、スポーツ界全体の構造的な体質があるように思います。それは、一芸に秀でていればすべてが許される、という甘えであり、傲慢だと思います。

アジア大会に出場するような選手は、中学生のころからスター選手としてもてはやされてきた人たちばかりだと思います。持ち上げられれば気が緩むのは当然で、多少の悪事は大目に見てもらえるという甘えも芽生えるでしょうし、高校や大学の受験では、多くの学校で、いわゆるスポーツ枠のようなものがありますから、学力が不足していても入学できる特権を与えられた人も多いと思います。

一芸に秀でた人を学力とは別に選抜するというのは、学力一辺倒ではない幅広い人間を育てるという意味では大事なことだと思いますが、それは一芸に秀でていれば、すべてが許されるということではありません。ほかの芸でもそうだと思いますが、スポーツで求められるのは、黙々と練習をして、技術を習得することだけではありません。どうやったら、強くなれるのか、勝てるのか、「考える力」も求められていますし、社会的な倫理観や常識を身に付けることも含まれているはずです。

欧米の学校では、スポーツ選手にも学力を求める傾向が強まっていますが、これは、けがなどでスポーツを断念したときの準備という意味だけではなく、スポーツそのものでも、総合的な思考力や常識が必要で、そのためには学力を高めたり、社会的常識を身に付けたりすることも必要だという考え方からだと思います。一定の学力を維持しなければ、練習や試合に参加できないという規則を設けている学校はふえています。学力のなかに、倫理科目や常識科目が入っているわけではありませんが、スポーツ以外の知識を学ぶことも大事だという謙虚な姿勢がなければ、学力も常識も身に付かないと思います。

私は体育系の大学で教えていた経験がありますが、秀でていた芸が裏目に出ている例をたくさん見てきました。そのスポーツで食べていけるというほどの実力がなかったり、けがをしたりして、スポーツを断念したときに、「糸の切れた凧」状態となり、無気力なまま過ごすことになってしまう例が多いのです。「勉強」もきらいですし、ほかに興味のあることも何もないのですから、仕方がないのかもしれません。この人の人生のピークは、高校総体の入賞だった、ということになってしまうのではないか、と思わせる学生もいました。

指導者にも問題があります。社会で自立できる人間を育てる、という教育の理念からはずれて、勝つことのみを目的にして、その人の体力も学力もすべてを犠牲にしている指導者がたくさんいます。技術力の向上を体罰に頼ったり、選手のけがの度合いを無視して悪化するのを放置したり、スポーツに集中させるため勉強を敵視したり、立場が上の人間には絶対服従することを強いたり、そういった体質がはびこるなかで、社会的倫理観が育つとは思えません。女子レスリング、アメフト、ボクシングなどで続く、スポーツ界の不祥事は、それぞれの固有の問題だけではなく、スポーツ界共有の構造問題があるのは明らかです。

鈴木大地スポーツ庁長官は今回の事件を受けて、「国がどこまで介入すべきなのか。あり方を検討せざるをえない」と語り、競技団体などへの国の介入を示唆しました。各競技団体の組織運営を点検して、ヤクザまがいの「終身会長」などを追放することは必要です。しかし、それだけでなく、自分の責任範囲であるスポーツ教育そのものを検討すべき時期にきていると思います。教育を含めたスポーツ全体のありかたを見直さなければ、スポーツ界の不祥事は繰り返されますし、サル山の大ボスを追放しても、別の小ボスが成り代わるだけで、問題は改善も解決もしないでしょう。

こうしたスポーツ界の体質を助けているのは政治家とマスコミです。多くのスポーツ団体がトップに政治家を担いでいます。競技団体にとっては、助成金の獲得などで都合の良いことも多いでしょうし、政治家にとっても、競技大会などでの見せ場をふえるうえに票田も期待できるというメリットもあるでしょう。しかし、団体のトップと政治家との癒着が団体としての健全さを失わせているデメリットも多いはずです。

メディアの問題も深刻です。政治家の取材と同じで、競技団体のトップや体質を批判すれば、取材ができにくくなるのでしょうが、それでは、「事件」や「告発」でもなければ、問題を提起できないだけでなく、国民に真実を知らせることができません。

レスリングでパワハラ問題を起こした指導者は、メディアでは、カリスマ指導者のような存在として報じられていました。取材をしていれば、この指導者のパワハラ的な言動は見えてくるはずですが、それを隠して報道していたわけで、メディア、視聴率のために国民を欺いていたことになります。スポーツの美しい物語のかげには、不透明な入学からセクハラ・パワハラ、暴力・体罰などのことがらが隠れているはずです。

私が地方支局で高校野球を取材していたのは30年以上も前ですが、甲子園に出場した高校の監督が部員に暴行してけがをさせた事件がありました。記事にしてはいけない、というのが当時の雰囲気であり、私も当然のようにそのことを受け入れていました。いまなら、ツイッターなどのSNSの発達で、隠しおおせないこととして表ざたになると思います。しかし、隠せないということで、スポーツ界やメディアの対応は変わったかもしれませんが、体質が変わったとは思えません。

2020年のオリンピックに向けて、政治とマスコミによる「国民運動」は盛り上がっていくでしょうが、スポーツ界の悪しき体質は残されていることも忘れてはならないでしょう。

(2018.8.21 「情報屋台」)

映画『ゲンボとタシの夢見るブータン』を見る

この映画を見ている途中で、これはドキュメンタリーを装ったドラマではないのかと疑いが起きて、あらためてパンフレットに「ドキュメンタリー」と書かれているのを確認しました。それほど、ここに登場する人物たちは、プロの役者が自然体の演技をしているかのように、ありのままに振舞いながら、そして含蓄のある言葉を発しながら、物語を静かに展開させていました。

そして、このドキュメンタリーを劇的なものにしているもうひとつの要因があることに気づきました。それは音声です。まるで映画のセットで撮影されたのではないかと思うほど、登場人物の音声が明瞭に録音されていたのです。録音技術の良さではなく、この映画の舞台であるブータンの地方都市に、「雑音」がないのだと思いました。

ドキュメンタリー映画でも、ドキュメンタリータッチの映画でも、それらしさを表しているのは、近くを走る車の騒音であったり、店から流れてくる音楽であったりします。そうした「雑音」のない世界とは、まさに映画のセットのように、どこにもないフィクションの世界です。

ところが、この映画の舞台となった寺院は、まさに静寂が支配しているのでしょう。そして、先祖代々受け継いできた寺院を守る父と母、主人公のゲンボとタシの兄と妹も、伝統という雑音のない世界に生きています。

もちろん、ブータンの地方にも近代化の波は押し寄せていて、その象徴がスマホで、この兄妹もフェイスブックなどで、友だちとつながっています。妹がスマホで撮ってきた女の子の写真を兄に見せながら、「かわいい子だろう」と、兄を挑発するように見せびらかすところなどは、いまや世界中のどこにでもある光景かもしれません。

このスマホの写真をめぐるふたりのたわいのない会話には、妹のある魂胆も見えます。それは、寺院を長男に継がそうとする父の考えに対して、妹は、遠く離れた僧院学校に兄が行くのがいやなのか、もっとかっこよい男になってほしいと願っているからなのか、敬愛する兄が寺を継ぐことには反対なようで、女の子の写真を見せるのも、俗世にとどまらせようという狙いがあるようなのです。

スマホに象徴されるブータンの近代化は、伝統の象徴でもある寺の家族を崩壊させかねない危機をもたらしている、ととらえることもできると思います。ブータンは「世界一幸せな国」というイメージを抱いている私たちは、ゲンボには、僧院を継いでほしいと願う気持ちがあります。でも、それは「秘境」は秘境のままであってほしい、という「非秘境」の人間の勝手な思い込みかもしれません。ゲンボもタシも、幸せを感じる道具としてスマホを使っています。それを捨てることが幸せなどという権利は、だれにもありません。

この映画の試写会のあとで、若いふたりの監督(ブータン出身のアルム・バッタライさんとハンガリー出身のドロッチャ・ズルボーさん)がゲンボとタシを語るなかで、ゲンボは寺を継がないのではないかと言っていました。自分で新しい世界を見つけ、自分なりの幸せをつかむというのでしょう。

私たちは、前近代→近代→現代という流れのなかで、気候変動や社会的格差、テロリズムなどの問題を考え、現代の病根を癒すために、現代→近代→前近代という逆の流れの中で、幸せをさぐろうとしています。しかし、ゲンボたちが固定電話の時代を経ずに、いきなりスマホを手に入れたように、ブータンが西欧型の近代化(お金の多寡が幸せを組める)を通り越して、超現代の幸せを手に入れる可能性はあると思います。ブータンが提案しているGNH(国民総幸福量)という考え方には、その願いが示されていると思います。スマホを手にしたゲンボやタシの未来も、新しい生き方、働き方のなかで、拝金主義とは異なる幸せをつかむのではないか、と期待しました。

ブータンという国のいまを知るだけでなく、私たちの未来を考えさせる示唆に富んだ映画です。8月18日からポレポレ東中野などで全国ロードショーの予定。
冒頭の写真:©︎ ÉCLIPSEFILM, SOUND PICTURES, KRO-NCRV