ナチスドイツの宣伝相として悪名を歴史に残したヨーゼフ・ゲッベルスの秘書だったブルンヒルデ・ポムゼルさん(1911~2017)が103歳のときに語った長時間のインタビューをもとにしたドキュメンタリー映画です。6月16日からの一般公開(岩波ホール)にさきだって、日本記者クラブの試写会で鑑賞しました。
彼女がゲッベルスの秘書をしたのは、1942年から終戦までの3年間だそうで、それから70年近い歳月を経て、しわだらけになった彼女の顔を見ていると、年齢だけとは思えない苦しみを味わってきたのだろう、と想像したり、30歳そこそこの秘書だった彼女にナチスの蛮行の責任を負わせるのは無理だという思いになったりして、同情する気持ちすら生まれました。
しかし、その一方で、「ホロコーストは何も知らなかった」という言葉を語るときの表情や目のうつろさに、「うそ」を感じてしまいました。ゲッベルスが見るなと命じたので重要な書類は読まなかったそうで、そのなかには、第2次大戦中に反ナチス運動を展開して死刑になった「白いバラ」運動のショル兄妹の書類もあったと語っていました。当時、大きな社会問題になったはずの事件で、若い学生たちが関与した事件でもありましたから、「書類を見なかった」という発言も「うそ」のように感じました。
だから、けしからんというのではありません。人生の終わりを目前にしてもなお、「言い訳」をしているとしか見えない映像に、人間の性(さが)を感じました。ユダヤ人の友だちとのエピソードも語られるのですが、これも、「言い訳」という文脈のなかで、私は聞いていました。「この世に神はいないが悪魔はいる」と、語る場面もありました。たしかに彼女が神の存在を信じていれば、すぐに神の審判を受ける身ですから、別の真実を語ったかもしれませんし、神も都合のよい忘却は許さなかったかもしれません。
彼女の独白は、歴史家やジャーナリストの関心をひきつける「歴史的な証言」や「特ダネ」は何もなかったと思います。原題は「あるドイツ人の人生」で、ナチスの時代に生きた普通の人の物語という監督の意図が込められているのでしょう。ナチスの広報マンとして、国民をナチスになびかせ、反ユダヤ主義を広めたゲッベルスは、プロパガンダの天才といわれ、彼が果たした役割は、まさに悪魔の仕業としか言えないものだと思いますが、その悪魔を育てたのは、彼らの「うそ」を見抜けなかったというか、その「うそ」に鈍感になっていた「普通の人々」である国民ということでしょう。
英国の文芸評論家・哲学者であるテリー・イーグルトンが2011年に著した『悪とはなか』(翻訳は前田和男訳で2017年にビジネス社から刊行)のなかに、次のようなくだりがあります。
「稀な現象とされるものが実にしばしば起きるように、悪魔は平凡なものに根をもっている。アドルフ・アイヒマン」が、[ユダヤ人]大量虐殺の立案者というより疲れ果てた銀行員に似つかわしいのが、その好例であろう。 (中略) 誰の目にも明らかな悪行―金儲けのために社会全体をぶち壊したり、原子力兵器を準備したりといった―は、これぞ悪魔というよりも、平々凡々たる連中によってなされる。われわれが過剰に用心するようなものとは無縁なもの、それが悪魔なのである」
70年も前の出来事を語る老人の言葉に私たちが耳を傾けなければならないと思うのは、日常生活のなかで、小さな「うそ」に鈍感になっていると、その延長線上に、いつのまにか大きな悪が生まれるということではないでしょうか。そして、大きな悪に巻き込まれたあとで、人々は「知らなかった」という言い訳を自分自身に対しても、後世の人々に対しても言い続けなければならないのです。「悪魔は平凡に宿る」ということです。
いま、権力者たちの「うそ」が世界中で稀ではなく、しばしば流されているように思えます。そして、普通の人々は、そのうそに鈍感になっています。ナチスドイツを許した「私」は、いまやどこにでもいる「私」です。苦悩と後悔と自己正当化の踊りを百歳過ぎても続けなければならない「私たち」を見たくない、と思います。
(「情報屋台」2018.5.24 © 2016 BLACKBOX FILM & MEDIENPRODUKTION GMBH)