映画『ゲンボとタシの夢見るブータン』を見る

この映画を見ている途中で、これはドキュメンタリーを装ったドラマではないのかと疑いが起きて、あらためてパンフレットに「ドキュメンタリー」と書かれているのを確認しました。それほど、ここに登場する人物たちは、プロの役者が自然体の演技をしているかのように、ありのままに振舞いながら、そして含蓄のある言葉を発しながら、物語を静かに展開させていました。

そして、このドキュメンタリーを劇的なものにしているもうひとつの要因があることに気づきました。それは音声です。まるで映画のセットで撮影されたのではないかと思うほど、登場人物の音声が明瞭に録音されていたのです。録音技術の良さではなく、この映画の舞台であるブータンの地方都市に、「雑音」がないのだと思いました。

ドキュメンタリー映画でも、ドキュメンタリータッチの映画でも、それらしさを表しているのは、近くを走る車の騒音であったり、店から流れてくる音楽であったりします。そうした「雑音」のない世界とは、まさに映画のセットのように、どこにもないフィクションの世界です。

ところが、この映画の舞台となった寺院は、まさに静寂が支配しているのでしょう。そして、先祖代々受け継いできた寺院を守る父と母、主人公のゲンボとタシの兄と妹も、伝統という雑音のない世界に生きています。

もちろん、ブータンの地方にも近代化の波は押し寄せていて、その象徴がスマホで、この兄妹もフェイスブックなどで、友だちとつながっています。妹がスマホで撮ってきた女の子の写真を兄に見せながら、「かわいい子だろう」と、兄を挑発するように見せびらかすところなどは、いまや世界中のどこにでもある光景かもしれません。

このスマホの写真をめぐるふたりのたわいのない会話には、妹のある魂胆も見えます。それは、寺院を長男に継がそうとする父の考えに対して、妹は、遠く離れた僧院学校に兄が行くのがいやなのか、もっとかっこよい男になってほしいと願っているからなのか、敬愛する兄が寺を継ぐことには反対なようで、女の子の写真を見せるのも、俗世にとどまらせようという狙いがあるようなのです。

スマホに象徴されるブータンの近代化は、伝統の象徴でもある寺の家族を崩壊させかねない危機をもたらしている、ととらえることもできると思います。ブータンは「世界一幸せな国」というイメージを抱いている私たちは、ゲンボには、僧院を継いでほしいと願う気持ちがあります。でも、それは「秘境」は秘境のままであってほしい、という「非秘境」の人間の勝手な思い込みかもしれません。ゲンボもタシも、幸せを感じる道具としてスマホを使っています。それを捨てることが幸せなどという権利は、だれにもありません。

この映画の試写会のあとで、若いふたりの監督(ブータン出身のアルム・バッタライさんとハンガリー出身のドロッチャ・ズルボーさん)がゲンボとタシを語るなかで、ゲンボは寺を継がないのではないかと言っていました。自分で新しい世界を見つけ、自分なりの幸せをつかむというのでしょう。

私たちは、前近代→近代→現代という流れのなかで、気候変動や社会的格差、テロリズムなどの問題を考え、現代の病根を癒すために、現代→近代→前近代という逆の流れの中で、幸せをさぐろうとしています。しかし、ゲンボたちが固定電話の時代を経ずに、いきなりスマホを手に入れたように、ブータンが西欧型の近代化(お金の多寡が幸せを組める)を通り越して、超現代の幸せを手に入れる可能性はあると思います。ブータンが提案しているGNH(国民総幸福量)という考え方には、その願いが示されていると思います。スマホを手にしたゲンボやタシの未来も、新しい生き方、働き方のなかで、拝金主義とは異なる幸せをつかむのではないか、と期待しました。

ブータンという国のいまを知るだけでなく、私たちの未来を考えさせる示唆に富んだ映画です。8月18日からポレポレ東中野などで全国ロードショーの予定。
冒頭の写真:©︎ ÉCLIPSEFILM, SOUND PICTURES, KRO-NCRV