今年は1868年の明治元年から150周年にあたり、明治維新150周年の記念行事が各地で催されています。しかし、同じ年に起きた戊辰戦争で敗れた奥州越列藩同盟の諸藩ゆかりの地域からみれば、薩長主体の新政府から受けた屈辱の歴史を思い起こす年でもあります。なかでも新政府軍からの攻撃で落城、転封の憂き目にあった会津藩ゆかりの福島県会津地方の思いは、ことしを「戊辰150周年」として観光につなげようとする商魂とは別に、根深いものがあるように思えます。そこで、日本記者クラブが企画した「戊辰戦争150年プレスツアー」に参加して、白河・会津若松を回り、あらためて戊辰戦争150年を考えてみました。
白河口の戦い
ツアーの最初に訪れたのが福島県中通り地方の南に位置する白河市です。ここで、東北における戊辰戦争の緒戦ともいえる「白河の戦い」があり、新政府軍は、会津藩を中心とする旧幕府軍(奥州越列藩同盟軍)を破り、戦いは会津藩の本拠地である若松に移ります。もともと白河を治めていたのは白河藩で、寛政の改革を主導した3代藩主の松平定信が有名です。戊辰戦争のときには、藩主だった老中の阿部正外が罷免され、国替えになった直後で、白河藩はなくなり、幕府直轄の天領となっていました。そこで、まず会津藩が白河藩の本拠地である小峰城(白河城)を占拠したのですが、ほどなく新政府軍はこの城を奪われました。JR白川駅の前に建つ優雅な小峰城(写真)は、戊辰戦争で焼失したのを1991年に復元されたものです。
この白河の戦いで、もっとも激戦となったのは、小峰城の南にある稲荷山での戦闘でした。新政府軍が攻撃を始めた最初に日だけでも旧幕府軍は700名近い戦死者を出したそうですが、新政府軍の死者は20名足らずだったとか。「新政府軍は射程の長いアームストロング砲などの火器でまさったうえ、鳥羽伏見の戦いからの東征の過程で取得した戦術や戦闘能力で、旧幕府軍を圧倒しました」と、小峰城や稲荷山の案内をしていただいた『白河大戦争』の著者、白川悠紀さんは語っていました。
薩英戦争(1863年)や馬関戦争(1864年)で、攘夷の限界と西欧の火器の威力を学んだ薩摩や長州を主体とする新政府軍は、戊辰戦争では、英国などから輸入した最新鋭の火器で旧幕府軍を圧倒しました。旧幕府軍でも長岡藩のように、最新鋭の機関銃だったガトリング砲などを装備したところもありましたが、旧幕府軍は、軍備で新政府軍に劣っていたようです。英アームストロング砲の開発が1855年、米ガトリング砲の発明が1861年、スナイドル銃の製品化は1863年、「八重の桜」の山本八重が使ったといわれるスペンサー銃の開発が1860年などと、最新兵器の開発された時期は幕末と重なっています。軍備でも、時代の変化にいちはやく対応できたところが勝者になったということでしょう。
斎藤善次右衛門
このツアーに携帯した小冊子があります。宮城県石巻市の郷土史家である阿部和夫さんが書いた『戊辰戦争150年 宮城・中津山の侍たち 北越戦争』(三陸河北新報社)で、石巻圏を販路とする「石巻かほく」に阿部さんが連載した記事をまとめたものです。石巻から戊辰戦争に加わった人たちのことを書いているのですが、そのなかに、「前谷地『斎善』の8代目の当主善次右衛門も出陣し、白河で戦死してしまいます」という記述があり、斎藤善次右衛門との“縁”を思い出しました。
私が2008年から3年間、朝日新聞石巻支局長として勤務していたときに、斎藤善治次右衛門が戊辰戦争に先立って仙台藩に1万両の献金を約束した遺墨と仙台藩の先遣隊として出陣したときに、陣中から子どもにあてた書状を私が入手し、それらを石巻市に寄託しているという縁です。東日本大震災の津波で、収蔵されていた石巻文化センターも被災したので、流出したのではないかと思っていたのですが、最近、石巻市教育委員会より連絡があり、旧湊小で仮保管されていることがわかりました。斎藤家は豪農で知られ、戦前は山形の本間家、秋田の池田家と並ぶ東北の3大地主で、明治以前は、仙台藩にたびたび寄進したことなどから天保年間に郷士となりました。
あらためて、書状には何が書かれていたのか、1968年に編纂された『斎藤善次右衛門伝』(財団法人斎藤報恩会)をひらくと、仙台藩が新政府の命を受けて会津征伐で出陣したときに、土湯口(現在の福島市土湯町)の陣中で書いたもので、会津藩との戦闘の模様などを伝えていました。「陣中生活を微細にわたって綴り、一子の養之助(九代)に教訓として垂れている点がうかがわれる」と、同書は手紙の内容を要約しています。
善次右衛門は、仙台藩が会津討伐から会津と同盟を組むことになると、そのまま会津に残り、白河口の戦いに加わり、稲荷山を中心に激戦となった日の白河城下での市街戦で、腹部に被弾、翌日の未明に死亡しました。42歳でした。白河の史跡をみると、「仙台斎藤善治(ママ)右衛門供養」という供養碑があり、新政府軍が旧幕府軍の遺体の埋葬やや慰霊を禁じていたといわれているので、どういういきさつで建立されたのか疑問があったのですが、上記の本でその疑問が解消されました。
善次右衛門は7人の従者を連れていて、生き残ったふたりが軍刀や遺髪を携えて帰郷、戦闘の様子などを詳しく報告していました。それによると、白河城下は新政府軍に制圧され、善次右衛門は旧幕府軍に味方した民家の土蔵に隠れていたところ、近くの高橋常吉という町民が自分の隠居所にかくまったそうです。その縁で、高橋家が自分の墓所に善次右衛門の供養塔を建てたとのこと、供養塔には、戦闘で亡くなった3人の従者の名前も刻まれています。戊辰戦争の直後は、旧幕府軍の死者に対して「鎮魂」という言葉は使えず、「戦死」という言葉を使ったようです。したがって、この供養塔も明治の初期に建てられたのだと想像されます。ツアーでは、稲荷山のふもとにある会津藩の「戦死墓」(写真)にお参りをしましたが、善次右衛門の供養塔については、その存在を知らなかったので、行けませんでした。宿題が残りました。
仙台の郷土史家である木村紀夫さんが2015年に著した大著『仙台藩の戊辰戦争』のなかの「人物録」では、善次右衛門について、次のように人物像を紹介しています。
「戊辰戦争で国難の急迫を知り、藩主に軍用金として一万両の無志願献上納を出願した。さらに自らが銃後にあるのを潔しとせず第一線の先鋒隊員を願い出て、…(中略)…。有為の人材で勇気と行動に徹した愛国者であった」
蘇る「仁」のこころ
戊辰戦争150年を記念して白河市がつくったテーマフレーズは、「蘇る『仁』のこころ」(写真)です。会津若松市がつくったフレーズは「現代に語り継ぐ、会津の『義』」で、「仁義」をこの2市で分け合ったのかと思いましたが、白河市の「仁」は「白河戊辰戦争の戦死者を敵味方の分け隔てなく、今も手厚く弔っている『仁』の心を後世に伝えていく」という意味で、会津若松市の「義」に込めた「会津は『義に死するとも不義に生きず』」とは、戊辰戦争に対する温度差があるようです。戦争の当事者である会津若松市と、戦場になった白河市とでは、捉え方に違いがあるのは当然かもしれません。
白河市が分け隔てなく弔う象徴として見せているのが会津藩士の「戦死墓」と、墓所の通りを隔てた向かい側に建つ新政府軍側の「長州大垣藩戦死六名墓」で、新政府側にも「戦死」という言葉が使われるなど、分け隔てがないようです。2015年に稲荷山につくられた慰霊碑には約千人の「戦殉難者」の名前が刻まれていますが、ここでも、仙台藩、会津藩、長州藩など、両軍の戦死者の名が出ています。
敵味方分け隔てなく弔うというのは、戦争の勝者に対しては、たやすかったかもしれませんが、敗者に対しては、弔った人にも災禍が及ぶ危険もあり、たいへんな勇気を必要としたと思います。仙台藩士であった斎藤善次右衛門に対する白河の人々の対応をみると、「仁」の心だけではなく「勇」の心意気もあったのだと思います。
白河以北一山百文
東北地方の人々にとって、戊辰戦争と白河というと、白河口の戦いよりも、「白河以北一山百文」という言葉のほうが有名だと思います。戊辰戦争の勝った新政府軍が白河以北の土地は、ひとやまでも百文にしかならない荒地ばかりだという意味で語った言葉だと伝えられています。白河は、平安時代には「白河の関」があり、奥州への入り口となっていたところですから、白河以北といえば、東北全体を指しています。東北人が怒るのは当然で、仙台に本社を置く河北新報は、この言葉から新聞の名前を採り、「東北の振興」と「不覇独立」(ふきどくりつ)を社是にしてきたそうです。
河北新報の紙面には、ときどき、題号の由来が紹介されているので、私も知っていましたが、今回のツアーで、平民宰相といわれた原敬(1856~1921)にも関係している言葉であることを知りました。新幹線の新白河駅で出迎えていただいた鈴木和夫市長の話の中で、南部藩士の末裔だった原が「一山百文」という言葉から採った「一山」を号として用いていたと、語っていたからです。東北人にとって、「白河以北…」の言葉が自らを卑下しながらも、それに負けない反骨精神を示す言葉として焼き付いているのを示すエピソードでしょう。鈴木市長は、「戊辰戦争は、官軍と賊軍の争いではなく、意見の違いだけだった」と原敬の言葉を伝えていました。前掲の阿部和夫さんの『北越戦争』も、1917年に盛岡市で開かれた戊辰戦争殉難者50年祭の祭文に書かれた次のような原敬の言葉を紹介しています。
「顧みるに昔日もまた今日のごとく国民誰か朝廷に弓引く者あらんや。戊辰戦役は政見の異同のみ。勝てば官軍、負くれば賊軍の俗謡あり。その真相をかたるものなり」
この言葉に対する阿部さんのコメントを紹介して、ツアー前半の話を終えます。
「これ(原敬の祭文)は、戊辰戦争に敗れ、以後『白河以北一山百文』とさげすまれ、さまざまな意味で冷遇されてきた奥羽諸藩の末裔の人々の思いはもちろん、東北地方の人々の無念の思いを代弁するものだったと思います」
(2018.9.18 「情報屋台」)