女子体操の宮川紗江選手の「告発」によって、体操界の重鎮ともいえる塚原光男・千恵子夫妻のパワハラ疑惑が浮上、夫妻の対応への批判が高まるなかで、夫妻が主宰してきた朝日生命体操クラブの存続問題まで取りざたされるようになりました。いろいろな問題が複雑に絡み合う今回の問題について、日本のスポーツ界の健全化という観点から考えてみたいと思います。
コーチへの処分は妥当だったのか
まず、今回の「騒動」のきっかけになった宮川選手に対する速見祐斗コーチの「暴力」問題です。選手とコーチとの間では、暴力は指導の一環で、体罰=愛の鞭という理解だったのでしょうが、体罰という名の暴力が許される時代ではありません。体罰や暴力の情報があれば、監督する団体や警察を含め関係する組織が積極的に調査・捜査し、暴力をふるった人間を罰するのは当然のことです。その点では、体操協会がコーチの暴力を調べて処分を下したことは正しい措置だったと思います。
とはいえ、処分には、それなりの調査と審議が不可欠で、さらにいえば、処分される側が納得し、反省や更生する機会を与えることも大事です。今回の処分では、処分を受けた速見コーチが地位保全の訴えを起こしたとのこと、あとで取り消したようですが、処分を納得させる、ということはできなかったようです。また、体罰を受けた宮川選手への事情聴取も十分ではなく、コーチを失う形となる宮川選手の不安を取り除くフォローも不十分だったようで、それが今回の記者会見の引き金になったと思います。
体操協会が今回設置する第三者委員会が処分の妥当性についても踏み込むのかどうかわかりませんが、処分には欠かせない暴力による身体的及び心理的な被害の事実認定が十分ではなく、処分後の加害コーチと被害選手へのフォローも不足しているなど、処分のやりかたは安易というしかなく、この処分を決めた協会全体の責任は免れないと思います。「塚原夫妻に押し切られた」という事情があるとしたら、それこそ協会全体のガバナンス(統治能力)が問われます。これは、「終身会長」を認めてきたボクシング協会と同じで、理事全体の責任です。
モグラ叩きで体罰はなくならない
暴力をふるった指導者が処罰されるのは当然ですが、それで、スポーツ界における体罰・暴力問題が根絶できるとは思えません。いまのスポーツ界の多くの指導者は、体罰で肉体と精神(根性)を鍛えながら育ってきています。体罰がダメだということは理解しているでしょうが、ではどうやって選手の自発的なやる気を出させるのか、という指導法が身に付いているとは思えないからです。
体罰はいけません、発覚すれば重い処分にするという通達をいくら出しても、体罰に代わる指導法を指導者に、ちゃんと身に付けさせない限り、指導者はその手立てがわからないまま指導するだけになってしまいます。その結果、選手の競技力が低下すれば、あせった指導者は、暴力とはみなされない暴力に走ることになります。実際、肉体的な暴力を加えなければいいという解釈は、言葉による暴力を助長しています。スポーツ教室でも、学校の部活動でも、練習場にしばらくいれば、たしかに肉体的な暴力とはいえないが、選手の人格否定という面では、心に傷を負わせるとい点では暴力以上にひどい指導が行われている場面をいくらでも目撃することができると思います。
どうすればいいのか、ひと言でいえば、「いじめて育てる」ではなく「ほめて育てる」という考え方に転換することです。しかし、指導者の多くは後者の実践例を知らずに育っているのですから、体罰のない指導を教科書や講義で学ぶのではなく、肉体が覚え込むには、スポーツ界あげての実践的な指導者教育が必要です。体罰が明るみに出れば処分するというモグラ叩き方式の対応では、体罰や言葉による暴力は繰り返されるでしょう。そればかりでなく、暴力問題がチームや選手の追い落としに利用される可能性があります。ライバルチームや選手を暴力スキャンダルでたたく、というのはスポーツ界の戦術のひとつになるかもしれません。今回の事件でも、暴力問題が引き抜きの道具に使われたと、宮川選手は主張しています。
スポーツ庁の鈴木大地長官は、スポーツ界で不祥事が相次いでいることを受けて、庁内にプロジェクトチームを設置するとしています。たしかに、スポーツ庁が主体的に体罰根絶のためのスポーツ指導に取り組まなければ、この問題は解決しませんし、こうした問題に早くから取り組んできた欧米から、日本は「スポーツ後進国」とみられている状況を改善することはできません。スポーツ庁もようやく腰を上げたという印象で、スポーツ界全体の課題だという認識がスポーツ庁には不十分だったと思います。
権力集中がパワハラの温床
宮川選手は、体操協会の女子強化本部長である塚原千恵子氏から、自分の言うことをきかないとオリンピックに出させない、という圧力を感じ、本部長の狙いは、宮川選手から速見コーチを引き離し、塚原さんの率いる朝日生命体操クラブに宮川選手を引き入れることだと思ったと、会見で述べていました。塚原本部長は、発言の意図はまったく違うと説明していますから、真偽のほどはわかりませんが、パワハラは、受けた側の「心証」が大きな要素となりますし、本部長がオリンピック選手の起用について大きな影響力を持っているのも確かですから、その意図に有無にかかわらず、パワハラと受け止められるような発言をしたということは事実として残るでしょう。
塚原本部長は、宮川選手との面談の際に同席した体操協会の塚原光男副会長との連名の「声明」で、「宮川選手の心を深く傷つけた」と謝罪していますが、パワハラについて認めているわけではありません。この問題は、第三者委員会がパワハラと認定するかどうかがひとつの判断基準になるでしょう。そこでパワハラと認知されれば、塚原強化本部長が職を辞すといった形で、責任を取ることになるのでしょう。しかし、これも体罰問題と同じで、そうしたモグラ叩きだけでは、問題解決にならないと思います。オリンピックなどの日本代表選手を決める監督や強化本部長といったパワーを持つ人間が特定のチームや個人と結びついていれば、利益相反というか、えこひいきの問題が残るからです。
女子レスリングでの栄和人氏による伊調馨選手へのパワハラ問題を思い出してください。栄氏は、日本レスリング協会の女子強化委員長であるとともに、女子レスリングの有力チームである中京女子大レスリング部の監督も兼ねていました。栄氏にとっては、有力選手を自分のチームに集めることで、指導がしやすい体制を整えたと思っていたかもしれませんが、選手の一極集中は、栄氏の権力集中を加速させ、栄氏に嫌われれば、レスリングの練習もできないという環境をつくることにもつながりました。これではレスリング選手全体のなかの切磋琢磨ではなく、特定のチーム内での競争にとどまってしまいます。
競技団体を運営する協会が協会自身で監督やコーチスタッフを雇うにはお金がかかりますし、監督らのその後の身分保障も考える必要があります。リオ・オリンピックの競技ごとに、監督の所属を見ていくと、協会の職員という身分の人もたくさんいました。これまでは、スポーツ競技団体の競技スタッフというと、別に本業がある人たちが多かったのですが、最近は、協会自身が監督やコーチなどのスタッフを抱えられるところもふえているということでしょう。その背景にあるのは、「サッカーくじ」によって、スポーツ界全体に資金的な余裕が生まれてきたことがあると思います。
オリンピック選手は国が育てる
スポーツ選手の育成でひとつの理想形は、ナショナルチームを恒常的に編成して、個別のクラブチームからは独立した監督やスタッフのもとで競技力を高める。そうした人材を育てる土壌として、ジュニアスポーツでもナショナルチーム的な仕組みもつくるという方式です。
日本でも、いろいろな競技で、そういう仕組みができつつある、ということでしょうが、それぞれの選手は個別のクラブで育ってきていますから、クラブスタッフとナショナルスタッフとの連携や協力だけでなく、個別クラブのスタッフをナショナルチームに参画させるなどの手立ても必要になるでしょう。水泳の松田丈志選手を「ビニールハウス」の練習場で育てた久世由美子さんは、松田選手への指導が評価され、日本代表チームのコーチにもなりました。今回の場合も、ナショナルチームの仕組みがちゃんとできていれば、クラブ移籍の勧誘疑惑などは生じなかったと思います。
日本の現状は、教育の一環であるはずの部活動やその先の実業団のような企業スポーツが盛んで、地域クラブで育った優秀な選手をナショナルチームで鍛える、という欧米の方式とは異なる仕組みになっています。そのことが、スポーツ選手の人間形成でも、学校のありかたでも、勝利至上主義がはびこり、日本の教育・スポーツをゆがめる結果になっています。スポーツ庁にとどまらず文科省全体がこの問題に取り組まなければならないことは、文科省が総合型地域スポーツクラブの育成に力を入れていることでもわかりますが、まだまだ学校や企業に依存する構造は変わっていません。オリンピック選手は国が育てる、という決意が必要だということです。
今回の事件を受けて、朝日生命という企業への苦情がふえているそうです。スポーツクラブのスポンサーに文句を言いたい、という気持ちは理解できますが、スポーツにお金を投じる企業が減っているなかで、そうした動きがますます企業のスポーツ離れを助長するのではないかと心配もします。
朝日生命体操クラブは、もともと実業団の企業スポーツとして発足した女子チームが母体となり、朝日生命がテニスやバレーボールなどの企業スポーツを縮小する過程で、塚原体操センターを受け皿にして、朝日生命が有力なスポンサーとなった経緯があります。地域主体のクラブチームが盛んになり、企業スポーツが縮小していくのは時代の流れともいえるし、そういう方向になってほしいと思います。しかし、地域主体のクラブといっても、企業が有力スポンサーになっているところは多く、朝日生命クラブも、選手やコーチが朝日生命の社員というわけではありません。「北の鉄人」と呼ばれた新日鉄釜石のラグビーチームは、いまは「釜石シーウェイブス」という地域のスポーツクラブとなっていますが、いまも新日鐵住金が有力なスポンサーとしてチームを支えています。
今回の事件で、スポーツクラブのスポンサーになる宣伝メリットに対して、リスクが大きすぎるという面が強調される事態になっていることは、所有から支援へという形で続いている企業スポーツ全体への悪影響を考えると、とても残念なことだと思います。
メディアへの注文
メディアにも注文があります。今回の問題がテレビのワイドショーで頻繁に取り上げられているのは、やむにやまれず告発にいたった女子選手を助けてあげたい、という多くの人々の心情を背景に、この「ニュース」が視聴率をそれなりに稼いでいるからでしょう。しかし、情緒的に取り上げるというテレビの体質から、宮川vs塚原問題ばかりに焦点をあて、塚原夫妻の言動を取り上げてはそれをたたく、というレベルにとどまっているように見えます。夫妻が辞任すると言うまで、メディアスクラムは続くのかもしれませんが、それだけなら、メディアは、モグラ叩きマシーンとしての機能は果たしてもスポーツ界全体の改善につなげるという意味で、社会的な役割としては不十分だと思います。一般紙の扱いは、情緒には流されないという意味で、冷静というか冷淡ですが、スポーツ界の構造問題として、もっと踏み込んでほしいと思います。
ところで、塚原夫妻が当初、「これでは言ったもん勝ちになる」などと、猛然と反発したと伝えられています。若い選手に「告発」された怒りもあるでしょうが、それよりも、「告発」後の流れが体操界における塚原夫妻の追い落としの動きだと感じたからということもあると想像します。告発の内容は「全部ウソ」と塚原副会長が語ったのを受けて、具志堅幸司副会長が「『うそ』と言ったのは残念」と塚原発言を批判しました。その通りだと思う一方で、日本的な組織のなかで、副会長が同僚の副会長の発言を批判することはきわめて異例だとも思いました。
もともと体操界では、日本体育大学を母体として同時期のオリンピックで活躍した塚原光男氏と監物永三氏とが日体大での職を争い、監物氏が日体大に残り、塚原氏が去った「しこり」が今も残っている、という「伝説」を耳にすることがあります。そういう昔話を聞くと、今回の問題に関して、メディアなどで発言して元体操選手がどこの大学の出身者なのか、げすの勘繰りで気になってきます。
「すべての膿を出す」と言った具志堅副会長の発言は、これもその通りですし、その発言は重いものだと思います。今回の体罰問題もパワハラ問題も、すべて日本のスポーツ界の構造と深くかかわっています。「すべての膿を出す」には、体操協会にとどまらず、文科省や日本オリンピック委員会なども含めたスポーツ界全体が取り組むべき課題がたくさんあると思います。
(2018.9.5「情報屋台」)