ジャカルタ・アジア大会に出場中の男子バスケットボールの選手4人が選手村から夜の街に繰り出し買春をしたとして、日本オリンピック委員会(JOC)から代表選手の認定を取り消されて帰国しました。大会期間中に、日本のユニフォーム姿で買春行為をしていたとのこと、情状酌量の余地はありません。
帰国後の会見に現れた4人は、「軽率だった」と、謝罪の言葉を繰り返していましたが、「スポーツマンらしい潔い態度」と言えるような態度で、その受け答えに悪い印象は受けませんでしたが、逆に言えば、好青年に見える人たちが平然と「軽率な行為」を行うことに、スポーツ界の社会的な倫理とか常識のなさに不気味さを感じました。
今回の事件の原因は、もちろん本人たちの資質の問題ですが、その背後には、スポーツ界全体の構造的な体質があるように思います。それは、一芸に秀でていればすべてが許される、という甘えであり、傲慢だと思います。
アジア大会に出場するような選手は、中学生のころからスター選手としてもてはやされてきた人たちばかりだと思います。持ち上げられれば気が緩むのは当然で、多少の悪事は大目に見てもらえるという甘えも芽生えるでしょうし、高校や大学の受験では、多くの学校で、いわゆるスポーツ枠のようなものがありますから、学力が不足していても入学できる特権を与えられた人も多いと思います。
一芸に秀でた人を学力とは別に選抜するというのは、学力一辺倒ではない幅広い人間を育てるという意味では大事なことだと思いますが、それは一芸に秀でていれば、すべてが許されるということではありません。ほかの芸でもそうだと思いますが、スポーツで求められるのは、黙々と練習をして、技術を習得することだけではありません。どうやったら、強くなれるのか、勝てるのか、「考える力」も求められていますし、社会的な倫理観や常識を身に付けることも含まれているはずです。
欧米の学校では、スポーツ選手にも学力を求める傾向が強まっていますが、これは、けがなどでスポーツを断念したときの準備という意味だけではなく、スポーツそのものでも、総合的な思考力や常識が必要で、そのためには学力を高めたり、社会的常識を身に付けたりすることも必要だという考え方からだと思います。一定の学力を維持しなければ、練習や試合に参加できないという規則を設けている学校はふえています。学力のなかに、倫理科目や常識科目が入っているわけではありませんが、スポーツ以外の知識を学ぶことも大事だという謙虚な姿勢がなければ、学力も常識も身に付かないと思います。
私は体育系の大学で教えていた経験がありますが、秀でていた芸が裏目に出ている例をたくさん見てきました。そのスポーツで食べていけるというほどの実力がなかったり、けがをしたりして、スポーツを断念したときに、「糸の切れた凧」状態となり、無気力なまま過ごすことになってしまう例が多いのです。「勉強」もきらいですし、ほかに興味のあることも何もないのですから、仕方がないのかもしれません。この人の人生のピークは、高校総体の入賞だった、ということになってしまうのではないか、と思わせる学生もいました。
指導者にも問題があります。社会で自立できる人間を育てる、という教育の理念からはずれて、勝つことのみを目的にして、その人の体力も学力もすべてを犠牲にしている指導者がたくさんいます。技術力の向上を体罰に頼ったり、選手のけがの度合いを無視して悪化するのを放置したり、スポーツに集中させるため勉強を敵視したり、立場が上の人間には絶対服従することを強いたり、そういった体質がはびこるなかで、社会的倫理観が育つとは思えません。女子レスリング、アメフト、ボクシングなどで続く、スポーツ界の不祥事は、それぞれの固有の問題だけではなく、スポーツ界共有の構造問題があるのは明らかです。
鈴木大地スポーツ庁長官は今回の事件を受けて、「国がどこまで介入すべきなのか。あり方を検討せざるをえない」と語り、競技団体などへの国の介入を示唆しました。各競技団体の組織運営を点検して、ヤクザまがいの「終身会長」などを追放することは必要です。しかし、それだけでなく、自分の責任範囲であるスポーツ教育そのものを検討すべき時期にきていると思います。教育を含めたスポーツ全体のありかたを見直さなければ、スポーツ界の不祥事は繰り返されますし、サル山の大ボスを追放しても、別の小ボスが成り代わるだけで、問題は改善も解決もしないでしょう。
こうしたスポーツ界の体質を助けているのは政治家とマスコミです。多くのスポーツ団体がトップに政治家を担いでいます。競技団体にとっては、助成金の獲得などで都合の良いことも多いでしょうし、政治家にとっても、競技大会などでの見せ場をふえるうえに票田も期待できるというメリットもあるでしょう。しかし、団体のトップと政治家との癒着が団体としての健全さを失わせているデメリットも多いはずです。
メディアの問題も深刻です。政治家の取材と同じで、競技団体のトップや体質を批判すれば、取材ができにくくなるのでしょうが、それでは、「事件」や「告発」でもなければ、問題を提起できないだけでなく、国民に真実を知らせることができません。
レスリングでパワハラ問題を起こした指導者は、メディアでは、カリスマ指導者のような存在として報じられていました。取材をしていれば、この指導者のパワハラ的な言動は見えてくるはずですが、それを隠して報道していたわけで、メディア、視聴率のために国民を欺いていたことになります。スポーツの美しい物語のかげには、不透明な入学からセクハラ・パワハラ、暴力・体罰などのことがらが隠れているはずです。
私が地方支局で高校野球を取材していたのは30年以上も前ですが、甲子園に出場した高校の監督が部員に暴行してけがをさせた事件がありました。記事にしてはいけない、というのが当時の雰囲気であり、私も当然のようにそのことを受け入れていました。いまなら、ツイッターなどのSNSの発達で、隠しおおせないこととして表ざたになると思います。しかし、隠せないということで、スポーツ界やメディアの対応は変わったかもしれませんが、体質が変わったとは思えません。
2020年のオリンピックに向けて、政治とマスコミによる「国民運動」は盛り上がっていくでしょうが、スポーツ界の悪しき体質は残されていることも忘れてはならないでしょう。
(2018.8.21 「情報屋台」)