(「情報屋台」4月27日)
東日本大震災で74人の児童と10人の教職員が死亡・行方不明になった宮城県石巻市の大川小学校をめぐる裁判で、仙台高裁が26日、児童を引率・誘導していた教職員の責任だけではなく、津波に対する防災対策も不備だったとして、地裁判決を上回る賠償金の支払いを命じる判決を出しました。「想定外」だったとして、賠償責任を否定した石巻市と宮城県に対して、児童生徒を守るために、はるかに高いレベルの防災対策を求めた判決で、これからの防災を考えるうえで、画期的な判決だと思います。
大川小では、震災直後、いったん子どもたちは校庭に避難しました。先生たちは、待機している児童をどこに避難させるかで50分近く議論したのち、北上川堤防の高台に避難することを決めました。ところが、退避行動に移ったところで、北上川を逆流して堤防を越えた津波に全員がのみこまれ、ほとんどの児童と教職員が犠牲になったのです。
地裁判決は、津波が押し寄せる直前に教職員は、広報車のアナウンスなどで大津波の襲来を知っていたはずで、津波が来る北上川沿いに児童を誘導したのは不適切だったとして、教員の過失を認めましたが、防災対策については過失を認めませんでした。市教委は防災マニュアルで、それぞれの学校が災害時に避難する場所を決めておくように指示していましたが、大川小の校長は、堤防を越える浸水を想定した具体的な避難場所を決めていませんでした。地裁は、予測不能だったとして、そのことの過失は問いませんでしたが、高裁はそこに踏み込んで、校長は危機管理の義務を怠り、市教委もそれを指導できなかった過失を認めました。
現場の教員の責任だけを認めた地裁判決に対して、高裁判決は、一般よりも厳しい防災マニュアルの作成とその具体化についての責任を教育側に求めたもので、これこそが大川小の悲劇から学ぶべき教訓で、すべての教育関係者に認識してほしいことだと思います。
震災後、何度も大川小学校の遺跡というのか跡地を訪れる機会がありましたが、そのたびに、ここを全国のすべての教職員が訪れるべき「聖地」にしてほしいということを思いました。廃屋となった校舎の横に建てられた慰霊碑の前で黙とうしたあと、校庭で隣接した裏山や、子どもたちが避難した北上川の高台を眺めながら、自分がその場にいたら、子どもたちを守るために、どんな行動をしただろうかといつも考えるからです。
実際、プライベートで来たという教員のひとたちにも会ったことがあります。教育関係者なら見ておきたい場所でもあるのです。そっとしておいてほしい、と思う遺族や地元の人たちもたくさんいると思います。それでも、静かに訪れるべき場所として、大川小は存在し続ける必要があると私は思います。
これまでは裁判中でしたから、教育関係者が公的に訪れるのは、市教委に対する遠慮もあったと思います。ですから、早く裁判が決着して、市教委も防災教育の考える原点として、大川小を案内できるようになってほしいと思います。
市教委だけではなく教育関係者には、判決が一般よりも高い防災の責任を学校に求めたことに戸惑いもあると思います。しかし、「大川小基準」をもとに、これから全国の学校の防災マニュアルが再検討されることになれば、それは必ず起こる大規模災害のときに、子どもたちの生命を救うことにつながると思います。
遺族が裁判を起こした理由のひとつは、震災直後の学校で、何が起こったのかを知りたいということでした。現場にいた児童からは、「山さ逃げよう」と言った児童がいたとの証言がありますが、市は認めていませんし、裁判所も当時は子どもだった証人の発言を求めませんでした。原告が裁判で期待していたのは、教員でただひとり生き残った教員の証言でしたが、これはかないませんでした。また、原告は23人の児童の遺族ですから、訴訟に加わらなかった遺族も多く、遺族のなかでも、原告になるかどうかでわだかまりも残っていると思います。
「大川小問題」の解決には、ほど遠いのでしょうが、今回の判決はひとつの到達点だと思います。